「殴られたくなければ金払え」「この商品が欲しければ金払え」これってなにがちがうん?

このようなツイートが流れてきた。

 

リンゴ1つ狩るのが大変な世界で、狩りに行く度10個採ってくるスターがいました。

半分、村に納めます。村の為に。

ある時、村長がたまにはと、村に集まったリンゴで小さなリンゴパイを配りました。だけどスターは貰えません。
お前は家にたくさんあるだろ。スターはアホらしくて村を去り、その村は…

 

 

ある程度以上の所得のある人々にとっては、このような議論に共感を覚えるかもしれない。曰く、所得税累進課税は(有能な)高所得者の勤労意欲を阻害するから望ましくない。もっと包み隠さずに言えば、こんなところだろう。

こんなに優秀な自分がこんなに苦労してたくさん稼いでいるのに、無能な人々のために納税させられるのは不公平だ。自分が裕福で、彼が裕福でないのは、才能と努力の結果であって、それに値するのだ、と。

 

もちろん、高所得者は、低所得者よりも税金による恩恵を多く受けているということもいえるかもしれないし、そうだとすれば税金を多く負担することも当然だともいえるかもしれない。

ただ、今回は、また別の視点からこのツイート(的な)主張を考えてみたい。

 

たとえば、あなたが、「殴られたくなければ、100万円を支払え。」と言われたとしよう。

あなたは、(それだけの勇気があれば)「そんなことを言われるいわれはない。そんな要求は受け入れられない。」と反論するかもしれないし、家族を人質に取られれば、泣く泣く100万円を支払うかもしれない。(その上で警察に相談するだろう)

 

すくなくとも、このような要求が違法であり、それによって100万円を得ることは正当化されないということには、多くの人が同意してくれるだろう。

 

いっぽうで、つぎのような要求はどうだろうか。

 

「この商品を手に入れたければ、100万円を支払え。」

 

この資本主義社会において、この要求は基本的に合法であるし、上記のツイート(的な)主張に共感する人は、双方の合意の上で所得の移動がなされるのであるから、このような要求によって100万円を得ることは正当化されると考えるのかもしれない。

 

しかし、このふたつの取引に、本質的な差はあるといえるだろうか。

 

まず、前者は、「何かをしないこと」とお金を取引しているのに対し、後者は「何かをすること」とお金を取引しているから、同視することはできないという主張にたいしては、後者を、「この商品の供給を止められたくなければ、100万円を支払え。」と言い換えればほぼ同じなので、あまり筋のよい主張とはいえない。

 

つぎに、前者は合意がないが、後者は合意があるという主張については、事実として前者にも合意はある。もちろんそれが正当な合意であるというつもりはないが、それならば、前者は正当な合意とはいえず、後者は正当な合意といえるだろうか。

 

前者は違法であり、後者は合法であるから、前者は正当化されず、後者は正当化される、という主張は誤りだ。

なぜなら、違法だが正当化される場合や、合法だが正当化されない場合があることはあきらかであるからである。(前者の例として杉原千畝の「命のビザ」、後者の例として、時代の変化に法規制が追い付いていない分野における行為など)

 

そもそも、人間の立法能力が完璧であると仮定すれば、正当化されるから合法なのであり、正当化されないから違法なのであるから、正当/不当は、合法/違法の手前にある問題なのである。

 

したがって、合法/違法をいったん横に置いておいて、正当/不当という軸で考えてみよう。

 

どんな社会であっても、市場に任せていれば、「力」を持つ者が富を独占することになる。なんの規制もない、原始的な社会にあっては、その「力」は、「武力」になるだろう。つまり、「殴られたくなければ100万円支払え。」の世界である。

 

しかし、この社会を正当化する者は多くないはずだ。

私たちは、「人権」などといった概念を生み出し、育て、道徳的に進歩してきたのだから。

「力」ある者が、「力」なき者から、「力」でもってなにかを奪うことは不当である。

それは、たとえばホロコーストであり、奴隷制であり、ブラック企業であり、ハラスメントだ。

 

それならば、この「力」には、「資本力」も含まれるのではないだろうか。

 

原始的な社会では、この世界の富は、誰の者でもなかったはずだ。

まさか、この世界の法律が富の偏在を許容しているからといって、それに基づく富の偏在が、本質的に正当化されるなどと主張するつもりだろうか。

 

法が、資本主義を許容しているのは、それが富を最大化することにもっとも適しているからに過ぎないというべきであろう。

そして、そのことが、(基本的には)人々の幸福の最大化に資すると考えられているからに過ぎないというべきであろう。

 

「スター」は「スター」でない人に、施しをしてあげている存在なのだろうか。「スター」でない人は、「スター」に物乞いをしなければならない存在なのだろうか。

「スター」でない人は、「スター」と同じような水準の生活を望んではいけないのだろうか。「スター」が許してくれる範囲の幸福しか望むべきではないのだろうか。

 

私は、資本主義による富の偏在は、合法だが正当化できないと思う。

「スター」は、合法的だが不当に奪った富を、正当に分配するべきなのではないだろうか。

 

なお、「スター」はそんな社会から出ていってしまうじゃないか、という主張にたいしては、それはそうかもしれないし、否定しない。

しかし、それは私の考え方のデメリットであるかもしれないということであって、だからといって私の考え方がただちに間違ってるということにはならないので、捕捉しておく。

 

 

 

 

 

寿司ペロは、むしろ彼を叩く大人たちこそ悪質

寿司ペロが炎上している。

 

これにたいして、悪いことをしたのだから、彼はどんな償いでもしなければならないとか、似た事例を誘発するから見せしめに制裁を加えるべきとか、飲食業界の信頼を損なわせたのだから株価の下落分を賠償させるべきだとか、まあそんなような、とことんまで叩くべきだ、みたいなことを主張する者がいる。

 

いっぽうで、さすがに責めすぎ・やりすぎだとか、まだ高校生なのだからちょっとお灸をすえて許してやるべきだとか、寛容さを持つ社会であるべきだとか、まあそんなような、高校生なんていつの時代もだいたいそんなもんじゃないの、みたいなことを主張する者もいる。

 

わたしは完全に後者なので、ちょっと思うところを聞いてほしい。

 

まず、彼の行為が悪いことであることは否定しがたい。とても不快だし、衛生的にも気になる。

わたしだって、あれを目の当たりにしたらちょっと食欲が失せるだろう。

 

しかし、いったん落ち着いて、なにが不快で衛生的に気になるのか、考えてみたい。

 

それは、唾液が付着することである。

 

彼が物理的に行ったことは、唾液を寿司(寿司だったっけ?)に付着させたことである。

 

それって、そんなに不快で衛生的に気になることだろうか。

 

そもそも、回転寿司に友人と言ったら、誰でも友人と話しながら食べるはずである。ということは、回転寿司の寿司というのは、唾液は付着していて当然なはずだ。

なお、寿司をレーンからとるときなど、寿司側に顔を向けるときにはぜったいに会話を中断し、呼吸を止めてとるようにしているなどという強者には当てはまらないのかもしれないが、わたしはそんな人も一人たりとも見たことがないので、考慮しない。

 

もっと言えば、しょうがをとるときに、手についていたごみとかほこりとかをしょうが入れに混入させたことがないなどと、誰が言い切れるのだろうか。

なお、しょうがをとるときは、毎回いったんお手洗いに行って、手術前の医師並みに手を洗っているなどという変態には当てはまらないかもしれないが、わたしはそんな人を一人たりとも見たことがないので、考慮しない。

 

さらに言えば、テーブルにおいてある紙お手拭き?をとるときには、けっこうな確率で自分がとる紙以外の紙にも手が触れるが、その手はぜったいに清潔であるなどと誰が言い切れるのだろうか。あなただって、お手洗いでちゃんと手を洗っていない人を見たことがあるはずだ。というか、誰だって、一度くらい手を洗わなかったことがあるはずだ。ないとは言わせない。

 

つまり、おそらく事実として、寿司には唾液が付着しているし、しょうがにはほこりが混入しているし、紙にはお〇っこがついている。

わたしたちはそれを受け入れているはずなのである。その証拠に、潔癖症の人はたぶん回転寿司をはじめ大衆店には行けないはずだ(高級店でも無理かも)。

 

つまり、寿司ペロの彼が行ったことは、すでにわたしたちが当たり前のこととして受け入れていることでしかない。

それを、わざとやったからといって、なぜそこまで叩くことができるのだろうか。

 

「だからといって、わざとそんなことをされて、それを見せられれば、誰だっていい気はしないだろう」という反論がなされるだろう。まったくもって同意である。完全に正しいと思う。

 

しかし、逆に言えば、「いい気はしない」という、ただその程度の話なのである。(あと、多少付着する唾液の量は多くなっているかもしれないが)

それなのに、極悪人かのように叩き潰す。引き起こされている事実自体は、みな暗黙のうちに受け入れていることだというのに。

株価の暴落とか顧客の信頼はどうなんだ、という指摘にたいしても同じことがいえる。回転寿司の寿司やしょうがや紙お手拭きには、完全無欠の清潔さが保証されている、投資家やお客さんは、そう信じていたのだなどと、まさか本気でそう主張するつもりだろうか。

株価が下がったのは、大騒ぎした大人たちが原因というべきだろう。

 

わたしは、このような社会にきわめて強い嫌悪を抱く。

目についた、叩きやすい、弱い立場の人間を、自らを棚どころか天井裏にまでに上げて責めたてる。

その悪辣さ、下劣さは、寿司ペロなどの比にならない。

 

この一連の流れを見て、きっと多くの子育て経験のある人は、こう思ったのでないか。

 

「子どもに、この程度のいたずらもしないレベルでしつけをしようと思ったら、それはもはや監禁するほかない。この社会で子どもをもうけたら、いたずらをさせないために我が子に犯罪行為をするしかないだろう。」

 

おおげさだと思うだろうか。わたしもそうであればいいと願っている。

2倍の値段を払って得られる満足度は2倍以上

ある商品があったとして、それの上位互換品(ありていに言えば高級品)が元の2倍の値段である場合に、それを購入することによって得られる満足度は2倍どころではないという実感が経験的にある。

 

たとえば、ある商品の、ぎりぎり不良品ではないがほぼ不良品の売値が100円であるとする。

さすがにほぼ不良品を売るわけにもいかないので、多少の品質向上をして、120円で売るとする。

 

これの上位互換品が2倍の値段になるとすると、240円で売ることになる。

 

お客さんから見れば、ある商品とそれの上位互換品が120円と240円で並んでいることになる。

 

お客さんは、2倍の値段なのだからこれらを購入したときの品質も2倍なのだろうと直観的に思うかもしれない。わたしはたぶんそう思う。

 

しかし、この話の場合、100円のほぼ不良品から品質を向上させるために使われている金額がいくらかといえば、120円の商品が20円であるのに対し、240円の商品は140円ということになる。

 

つまり、売値は2倍であるが、品質向上投資額は7倍なのだ。

 

この理屈が正しいかは分からないが、ちょっと思い切っていいものを買ってみたときに、想像していた以上に高い満足を得られた経験が誰しもあるのではないだろうか。

ダッシュで3分

 何年か前、ある社会人サークルの立食パーティーに参加した。

 

 わたしはあまり社交的なほうではなく、立食パーティー的な場所で会話の輪に入るのが苦手なので、わりとすぐぼっち状態になる。

 ぼっち状態で立ち止まると、ぼっち状態になっていることが一目瞭然なので、食事を見て回っているふりをして歩き続けることで、一時的にぼっち状態になっているに過ぎないのだという雰囲気を醸し出す必要がある。

 

 その日も、そんなふうにテーブルを100周くらいしたとき、たまたまわたしと同じようにぼっち状態になっている女性がいたので、話しかけてみた(なお、その女性は立ち止まっていたので、ぼっち状態であることが分かったのだ)。

 

 どういう話の流れだったか忘れたが、その女性の行きつけのカフェの話になった。こんなドリンクがおすすめで~とか楽しく会話していた。

 わたしは、「そのカフェはどのへんにあるんですか」と聞いた。

 

 女性「〇〇駅から、ダッシュで3分です」

 

 なんでダッシュで言うんだろう、と思った。

 わたしはこの女性のダッシュ力を知らないし、そもそも3分もダッシュしたことがないので、ぜんぜん距離感が分からなかった。

 

 わたしは、「なんでダッシュで言ったんですか」と聞いた。

 女性は、「わたしいつもギリギリまで寝てるんで、いつもダッシュなんですよ。だからです」と答えた。

 

 いちおう理由が示されたが、「だから」という接続語の用例として正しいのかは分からなかった。

 

 あとから調べてみると、徒歩9分となっていたので、そこをダッシュ3分というのは、あの女性はけっこう正確な回答をしてくれていたようだ。

 

飲み会翌朝のあいさつってなんであんな嫌なん?

  わたしが勤める会社では、飲み会のあった日の翌朝、飲み会に参加した人にあいさつに回るという文化がある。

 

 「昨日はお疲れ様でしたー」みたいなかんじで、目下の者が目上の者にたいしてあいさつに行くというのが暗黙の了解となっている。

 

 わたしは、これが苦手だ。

 

 苦手というか、はっきり言って嫌だ。あいさつに行きたくない。会社の飲み会自体は、面倒だな、とか、ほかにもっと有効な時間を使い方をしたいな、とは思うが、別に嫌で嫌で仕方がないというほどではない。それなのにわたしが会社の飲み会に行きたくないのは、翌朝のあいさつが嫌だからだ。それほどまでに嫌だ。

 

 しかし、どうしてこんなに嫌なのか、はっきりとした理由が分からないのだ。

 

 たとえば、あいさつ自体を重要視していなくて、しなくてもいいものだと考えているのなら、それを期待する文化になじめないのは理解できる。しかし、わたしはあいさつを重要視しているし、単純に好きだ。自分からあいさつをするのは気持ちがいいし、相手にも喜んでもらえることが多いので、こちらまで嬉しくなる。

 今までの人生でも、だいたい、あいさつがさわやか、笑顔が素敵、物腰柔らか、といった評されてきた(そう言ってくれた人は確かに存在した)。

 

 たとえば、特定の人にだけあいさつに行きたくない、というのなら、それも分かる。しかし、わたしは、とても好意的に感じている会社の人にたいしても、あまり気が進まない。

 

 そして何より不思議なのが、飲み会の翌朝のあいさつ的なものを、わたしは、プライベートの場合はむしろ積極的に、好んでやりたくなるということだ。

 つまり、会社においてのみやりたくなくなるのである。

 

 これがどうしてなのか、かねてから不思議に感じていたのだが、ちょっとした仮説に至ったので、書いておく。

 

 さっき、わたしはあいさつが好きで、相手も喜んでくれるのでこちらも嬉しくなると書いた。

 これに嘘はないのだが、じつは、わたしは、逆に相手からあいさつされることは、あまり嬉しくないのだ。めちゃくちゃ誤解されそうなので弁解するが、別に嬉しくないわけではない。でも、ぶっちゃけ面倒くささが勝っている場合が多い。好意を抱いている相手(特段恋愛対象という意味ではなく)なら嬉しいが、それでも自分からあいさつして相手が喜んでくれることにはまったく及ばない。ただの同僚なら、面倒くさいが完全に勝つ。

 やはり思うのは、人に尽くしてもらう喜びよりも、人に尽くす喜びのほうが、比較にならないほど質の高い幸福感を得られるということだ。

 たとえば結婚の幸せは、配偶者から何かを与えてもらえることにあるのではなく、むしろ何かを配偶者に与えてあげられることにあるのだと思う。そして何より、自分が与えたものを受け取ってくれ、それを誰より喜んでくれることにこそあるのだと思う。

 

 そう考えると、わたしが会社ではあいさつしたくなく、プライベートではしたくなる理由が少し説明できる。

 

 つまり、会社では、そういう文化なので、目上の者は、目下の者があいさつに来ることを当然だと思っているし、社員たちもそれを当然だと思っている。むしろ、ちゃんとあいさつするかどうか試しているふしすらある。

 おそらく、わたしはそれが嫌なのだ。義務化、ルール化されると、やりたくなくなる。

 さいきん、とある本を読み返していて、(だいたい)こんなことが書かれていた。(ヤニス・バルファキス, 2019, 『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』ダイヤモンド社, pp.45-48, 筆者要約)

 

とある漁船の錨が海底の岩に挟まってしまい、鎖が切れてしまったので、縄を錨に結びに海の潜りたいが、船長は持病が悪化して潜れそうにない。そこで、近くにいた著者が、船長の代わりに潜ってもらうよう頼まれた。

 著者は快く引き受け、この船長の手助けをしたことに、喜びを感じた。しかし、かりに、この船長が、お金を払うから代わりに潜ってもらえないか、と頼んできていたら、喜びは得られなかっただろう、とも感じた。

 

 こういうことをしたら、あの人はきっと喜んでくれるだろう、と想像するのは本当に楽しい。じっさいに行動した結果、相手が喜んでくれたら最高に嬉しい。かりに相手があまり喜んでくれなかったとしても、自分は幸せな気持ちになる。それは、きっと自分が心からそうしたいと思って行動するからだ。それが幸福感につながる。結果の良し悪しではなく、自分の意思で、選択して行うことに意味がある。

 

 会社でルール化されたことは、当然、仕事だ。給料をもらうためにすることだ。あいさつは人間関係を円滑にするし、したほうが良いに決まっているので、それは、業務を行う上では有効な施策だったかもしれない。しかし、ヤニス・バルファキスが感じたように、喜びは失われる。

 

 わたしは、きっとそれが嫌なのだろう。ようするに、自分がやりたくないこと、喜びを感じられないことができない性分なのだ。それはみんなある程度そうだろうが、わたしはその許容量が相当少ないのだと思う。

 わたしは過去を悔やむ、というか、自分がやってしまったことで今となっては間違いだったと思うことなどを、時々異様に思い出して、自分を許せなくて、落ち込むことがある。そういうところにも、つながっているのだと思う。

 

 子供なのだと思うが、たぶんこの性分は直らないし、しょうじきなところ、直したほうがいいとも思っていないので、(直したほうが会社ではぜったいうまくやっていけるが)とりあえず自己理解を深めて、せいぜい足掻いていきたい。

 

 

 

消費税の修正申告があったとき、税抜経理と税込経理で法人税への影響時期が異なるのはなぜか

 たとえば、消費税の計算において、課否判定を誤っており、修正申告を行う場合を考えてみたい。(仕訳は税抜経理の場合)

 

(間違った仕訳)

左側勘定:費用:100 仮払消費税:10

右側勘定:Cash:110

 

(正しい仕訳)

左側勘定:費用:110

右側勘定:Cash:110

 

 つまり、ある費用を消費税の課税対象であると判断し、仕入税額控除を行ったが、実は課税対象ではなく、仕入税額控除が否認される場合だ。

 

 よって、消費税の修正申告によって10の税額が発生する。

 ここまでは税抜経理であっても、税込経理であっても、変わらない。

 

 しかし、消費税額が変動するということは、当然法人税の課税関係にも影響を与えるので、法人税の所得の金額が増減することになるのだが、この法人税へ影響させる時期が、税抜経理と税込経理とで異なるとされているのである。

 

 つぎに引用する国税庁の法令解釈通達「消費税法等の施行に伴う法人税の取扱いについて」を、この事例にひきつけて説明すれば、法人税の所得の金額への影響は、税抜経理の場合にはこの取引があった事業年度で、税込経理の場合には修正申告書を提出した日の属する事業年度で、それぞれ受け入れるということになる。

 

(仮払消費税等及び仮受消費税等の清算

6 法人が消費税等の経理処理について税抜経理方式を適用している場合において、消費税法第37条第1項*1の規定の適用を受けたこと等により、同法第19条第1項*2に規定する課税期間の終了の時における仮受消費税等の金額(特定課税仕入れの消費税等の経理金額を含む。)から仮払消費税等の金額(特定課税仕入れの消費税等の経理金額を含み、控除対象外消費税額等に相当する金額を除く。)を控除した金額と当該課税期間に係る納付すべき消費税等の額又は還付を受ける消費税等の額とに差額が生じたときは、当該差額については、当該課税期間を含む事業年度において益金の額又は損金の額に算入するものとする。(平9年課法2-1、平27年課法2-8により改正)

 

(注) 特定課税仕入れの消費税等の経理金額とは、5の2*3のただし書により、特定課税仕入れの取引に係る消費税等の額に相当する額として経理した金額をいう。

 

(消費税等の損金算入の時期)

7 法人税の課税所得金額の計算に当たり、税込経理方式を適用している法人が納付すべき消費税等は、納税申告書に記載された税額については当該納税申告書が提出された日の属する事業年度の損金の額に算入し、更正又は決定に係る税額については当該更正又は決定があった日の属する事業年度の損金の額に算入する。ただし、当該法人が申告期限未到来の当該納税申告書に記載すべき消費税等の額を損金経理により未払金に計上したときの当該金額については、当該損金経理をした事業年度の損金の額に算入する。(平9年課法2-1により改正)

 

(消費税等の益金算入の時期)

8 法人税の課税所得金額の計算に当たり、税込経理方式を適用している法人が還付を受ける消費税等は、納税申告書に記載された税額については当該納税申告書が提出された日の属する事業年度の益金の額に算入し、更正に係る税額については当該更正があった日の属する事業年度の益金の額に算入する。ただし、当該法人が当該還付を受ける消費税等の額を収益の額として未収入金に計上したときの当該金額については、当該収益に計上した事業年度の益金の額に算入する。(平9年課法2-1により改正)

 

 この違いはどう説明されるのだろうか。

 

 法人税においては、益金の額の算入時期については権利確定主義に、損金の額の算入時期については、消費税が2号原価とは考えにくいので、3号経費として債務確定基準に従う。

 今回の事例を考えてみると、税込経理の場合、修正申告書を提出した日が、10の追加税額の債務が確定した日であると考えれば、この日が属する事業年度において損金の額に算入するということは理解できる。

 しかし、それをいうなら、税抜経理の場合であっても、損金または益金の債務または権利が確定したのも、修正申告書を提出した日であるというべきなのではないかという疑問が生じる。

 この点について、つぎのように説明したい。

 

 税抜経理の場合、今回の事例だと、つぎのような修正仕訳を行うことになる。

 

(修正仕訳)

左側勘定:費用:110 

右側勘定:費用:100 仮払(未払)消費税:10

 

 この修正仕訳の結果、費用が10増加しており、これが損金の額に算入される。税込経理の場合と損金の額に算入される金額は10で同じであるが、この10は、税込経理の場合には消費税額であったのに対し、税抜経理の場合は、費用なのである。

 

 この費用が債務確定したのはいつか?

 

 もちろん、この取引があった事業年度である。

 

 以上で、税抜経理の場合と税込経理の場合とで法人税への影響時期が異なることを説明できた(と思う)。

*1:中小事業者の仕入れに係る消費税額の控除の特例

*2:課税期間

*3:特定課税仕入れに係る消費税等の額

悪いことをした人を責めることは正当化できるか?

 悪いことをした人は、責任を問われる。ほとんどの人が当然のこととして受け入れているように思う。

 人を責める方法は、いろいろある。法による罰を与えたり、社会から締め出したり、私刑を行ったり。これらを、悪いことをしていない人にたいして行ったとしたら、これらを行った人が悪人だと言われるだろう。

 しかし、悪いことをした人にたいしてなら、正当化できるらしい。いったい、どういう理由で正当化できるのだろうか。

 

 悪いことをしたからだ、それ以外に理由がいるのか? という指摘がありそうだ。たしかに、悪いことをしたら報いを受けるべきだ、という考え方は、筋が通っている気がするし、感情的にも受け入れやすい。

 しかし、悪いことをしたこと、それ自体が責めを負わされる理由であるならば、赤ちゃんや重度の精神障害を有する人が人を死なせてしまった場合でも、責めを負わせなければならないことになる。おそらく、人を殺すことは「悪いこと」だからだ。このような結論は受け入れがたい気がする。ということは、ある人に責めを負わせる理由は、悪いことをしたから、という理由ではない。

 

 このように指摘すると、ならば、ある人に責めを負わせるのは、悪いことだと分かっていながら悪いことをしたからだ、というのがつぎに出てくる一般的な回答になるだろう。

 しかしこの考え方も、正当防衛を正当化できないという問題を抱えている。なぜなら、敵に襲われて、やむを得ず敵を殺した場合、敵とはいえ人を殺すことは悪いことだと分かっていながら人を殺すという悪いことをしているので、この考え方からすると、この防衛をした人は、責めを負わされることになり、おかしな結論になる気がする。

 

 このように指摘すると、少々いらいらされながら、それなら、ある人に責めを負わせるのは、悪いことだと分かっていながら、その悪いことをしないことができたのに、その悪いことをしたからだ、という回答をされるだろう。

 これは、わりと正しそうな気がする。

 

 しかし、わたしはここにちょっとした疑問というか、本当かな?という思いがある。

 

 たとえば、殺人を犯した人がいたとする。この人を責めるのは、「殺人は悪いことだと分かっていながら、殺人をしないこともできたのに、殺人をしたから」だ。

 ここで、少し想像してみてほしい。

 

 かりに、あなたがこの犯人とまったく同じ生い立ち、性格、考え方をしており、まったく同じ状況に置かれていたとしたら、あなたは、殺人をしないことができただろうか。

 

 答えはもう出ている。犯人とまったく同じなのだから、あなたは殺人をするのだ。

 

 その想像上の人物はもはや犯人そのものであって、自分ではないのだから、自分が殺人をするということにはならない、自分なら、犯人と同じ状況にあっても、殺人はしない、というツッコミがあるだろう。それはたしかにそうだ。しかしそれなら、なぜあなたは犯人にたいして、「殺人をしないこともできた」と言えるのだろうか。たしかにあなたは犯人と同じ状況にあっても殺人をしないことができると思っているのかもしれないが、なぜあなたに、他人である犯人ができること、できないことが分かるのだろうか。

 

 あなたが犯人とまったく同じ状況において、異なる行動をとることができるというのなら、犯人を責めることができるだろう。しかし、まったく同じ状況などありえない。なぜなら、当たり前だが、考え方、価値観、性格は人によって違うからだ。

 

 つまり、わたしたちは、犯人を責める理由を、犯人が殺人をするような考え方、価値観、性格をしていて、殺人をするような状況に遭遇したことに求めていることになる。この点は重要で、つまり、殺人を犯すような状況を招いたことを責めているのであって、殺人それ自体が犯人を責める理由ではないということだ。なぜなら、繰り返しになるが、犯人とまったく同じ状況(内面とか心とかそういうのも含む)にあれば、当然誰しも犯人と同じ行動をとるわけで、その状況において殺人をしないことはできなかったのだから、責めることはできないからだ。

 

 犯人を責める理由をあらためて整理してみる。

 

 ある人に責めを負わせるのは、その人が悪いことだと知っていながら悪いことをしてしまうような考え方、価値観、性格をしており、そのうえで、悪いことをしてしまうような状況に身を置いたからだ。

 

 ここまでくると、その人がそういう考え方や価値観や性格をしていることや、そういう状況に遭遇したことに、どれほど本人に原因を求められるのだろう。

 

 あなたが、いま、あなたのような人である原因はなんだろうか。それはすべてあなた自身のみに原因があるのだろうか。そうではないだろう。

 日本に生まれ、その家に生まれ、その家族をもち、その友人を持ち、その学校に通い、その会社に就職したことにも、いや、むしろそれらのほうにこそ、大きな原因があるのではないだろうか。あなたは日々、仙人のように自分の信じる正義を自分だけで追求してきたのだろうか。すくなくともわたしはぜんぜんそうではない。周りの環境に流され、価値観に染められ、偏見と思い込みに常識という名前をつけて生きてきた気がする。

 地球の反対側に生まれていたとしても、あなたはいまのあなたとまったく同じあなたに育っていたと思うだろうか。思わないだろう。

 

 そう考えると、悪いことをした人を責めることは、やむをえないのかもしれないが、そんなに当たり前に正当化できるものとは言い切れない気がしてくる。

 引き起こした結果にたいしては責任をとらなければならないのかもしれないが、その人が悪い人であるとか、悪いことをしたのだから報いを受けて当然だとか、悪いことをしたのだから何をされても文句は言えないとか、そんなことはそうやすやすと言えることではない気がする。社会は、被害者を保護するのは当然であるが、それと同じくらい、加害者も保護する必要があるのではないか。

 

 なお、悪いことをした人を罰さないと、気持ちが収まらない、みんな納得しない、という意見は感情的にはまったくそのとおりであるが、それは言ってみればみんながいい気分になるためなら誰かをいじめてもいいと言っているのとそう変わらないわけで、ちょっと野蛮すぎるような気もする(というような話をたしか戸田山和久『哲学入門』で読んだ記憶がある)。