ダッシュで3分

 何年か前、ある社会人サークルの立食パーティーに参加した。

 

 わたしはあまり社交的なほうではなく、立食パーティー的な場所で会話の輪に入るのが苦手なので、わりとすぐぼっち状態になる。

 ぼっち状態で立ち止まると、ぼっち状態になっていることが一目瞭然なので、食事を見て回っているふりをして歩き続けることで、一時的にぼっち状態になっているに過ぎないのだという雰囲気を醸し出す必要がある。

 

 その日も、そんなふうにテーブルを100周くらいしたとき、たまたまわたしと同じようにぼっち状態になっている女性がいたので、話しかけてみた(なお、その女性は立ち止まっていたので、ぼっち状態であることが分かったのだ)。

 

 どういう話の流れだったか忘れたが、その女性の行きつけのカフェの話になった。こんなドリンクがおすすめで~とか楽しく会話していた。

 わたしは、「そのカフェはどのへんにあるんですか」と聞いた。

 

 女性「〇〇駅から、ダッシュで3分です」

 

 なんでダッシュで言うんだろう、と思った。

 わたしはこの女性のダッシュ力を知らないし、そもそも3分もダッシュしたことがないので、ぜんぜん距離感が分からなかった。

 

 わたしは、「なんでダッシュで言ったんですか」と聞いた。

 女性は、「わたしいつもギリギリまで寝てるんで、いつもダッシュなんですよ。だからです」と答えた。

 

 いちおう理由が示されたが、「だから」という接続語の用例として正しいのかは分からなかった。

 

 あとから調べてみると、徒歩9分となっていたので、そこをダッシュ3分というのは、あの女性はけっこう正確な回答をしてくれていたようだ。

 

飲み会翌朝のあいさつってなんであんな嫌なん?

  わたしが勤める会社では、飲み会のあった日の翌朝、飲み会に参加した人にあいさつに回るという文化がある。

 

 「昨日はお疲れ様でしたー」みたいなかんじで、目下の者が目上の者にたいしてあいさつに行くというのが暗黙の了解となっている。

 

 わたしは、これが苦手だ。

 

 苦手というか、はっきり言って嫌だ。あいさつに行きたくない。会社の飲み会自体は、面倒だな、とか、ほかにもっと有効な時間を使い方をしたいな、とは思うが、別に嫌で嫌で仕方がないというほどではない。それなのにわたしが会社の飲み会に行きたくないのは、翌朝のあいさつが嫌だからだ。それほどまでに嫌だ。

 

 しかし、どうしてこんなに嫌なのか、はっきりとした理由が分からないのだ。

 

 たとえば、あいさつ自体を重要視していなくて、しなくてもいいものだと考えているのなら、それを期待する文化になじめないのは理解できる。しかし、わたしはあいさつを重要視しているし、単純に好きだ。自分からあいさつをするのは気持ちがいいし、相手にも喜んでもらえることが多いので、こちらまで嬉しくなる。

 今までの人生でも、だいたい、あいさつがさわやか、笑顔が素敵、物腰柔らか、といった評されてきた(そう言ってくれた人は確かに存在した)。

 

 たとえば、特定の人にだけあいさつに行きたくない、というのなら、それも分かる。しかし、わたしは、とても好意的に感じている会社の人にたいしても、あまり気が進まない。

 

 そして何より不思議なのが、飲み会の翌朝のあいさつ的なものを、わたしは、プライベートの場合はむしろ積極的に、好んでやりたくなるということだ。

 つまり、会社においてのみやりたくなくなるのである。

 

 これがどうしてなのか、かねてから不思議に感じていたのだが、ちょっとした仮説に至ったので、書いておく。

 

 さっき、わたしはあいさつが好きで、相手も喜んでくれるのでこちらも嬉しくなると書いた。

 これに嘘はないのだが、じつは、わたしは、逆に相手からあいさつされることは、あまり嬉しくないのだ。めちゃくちゃ誤解されそうなので弁解するが、別に嬉しくないわけではない。でも、ぶっちゃけ面倒くささが勝っている場合が多い。好意を抱いている相手(特段恋愛対象という意味ではなく)なら嬉しいが、それでも自分からあいさつして相手が喜んでくれることにはまったく及ばない。ただの同僚なら、面倒くさいが完全に勝つ。

 やはり思うのは、人に尽くしてもらう喜びよりも、人に尽くす喜びのほうが、比較にならないほど質の高い幸福感を得られるということだ。

 たとえば結婚の幸せは、配偶者から何かを与えてもらえることにあるのではなく、むしろ何かを配偶者に与えてあげられることにあるのだと思う。そして何より、自分が与えたものを受け取ってくれ、それを誰より喜んでくれることにこそあるのだと思う。

 

 そう考えると、わたしが会社ではあいさつしたくなく、プライベートではしたくなる理由が少し説明できる。

 

 つまり、会社では、そういう文化なので、目上の者は、目下の者があいさつに来ることを当然だと思っているし、社員たちもそれを当然だと思っている。むしろ、ちゃんとあいさつするかどうか試しているふしすらある。

 おそらく、わたしはそれが嫌なのだ。義務化、ルール化されると、やりたくなくなる。

 さいきん、とある本を読み返していて、(だいたい)こんなことが書かれていた。(ヤニス・バルファキス, 2019, 『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』ダイヤモンド社, pp.45-48, 筆者要約)

 

とある漁船の錨が海底の岩に挟まってしまい、鎖が切れてしまったので、縄を錨に結びに海の潜りたいが、船長は持病が悪化して潜れそうにない。そこで、近くにいた著者が、船長の代わりに潜ってもらうよう頼まれた。

 著者は快く引き受け、この船長の手助けをしたことに、喜びを感じた。しかし、かりに、この船長が、お金を払うから代わりに潜ってもらえないか、と頼んできていたら、喜びは得られなかっただろう、とも感じた。

 

 こういうことをしたら、あの人はきっと喜んでくれるだろう、と想像するのは本当に楽しい。じっさいに行動した結果、相手が喜んでくれたら最高に嬉しい。かりに相手があまり喜んでくれなかったとしても、自分は幸せな気持ちになる。それは、きっと自分が心からそうしたいと思って行動するからだ。それが幸福感につながる。結果の良し悪しではなく、自分の意思で、選択して行うことに意味がある。

 

 会社でルール化されたことは、当然、仕事だ。給料をもらうためにすることだ。あいさつは人間関係を円滑にするし、したほうが良いに決まっているので、それは、業務を行う上では有効な施策だったかもしれない。しかし、ヤニス・バルファキスが感じたように、喜びは失われる。

 

 わたしは、きっとそれが嫌なのだろう。ようするに、自分がやりたくないこと、喜びを感じられないことができない性分なのだ。それはみんなある程度そうだろうが、わたしはその許容量が相当少ないのだと思う。

 わたしは過去を悔やむ、というか、自分がやってしまったことで今となっては間違いだったと思うことなどを、時々異様に思い出して、自分を許せなくて、落ち込むことがある。そういうところにも、つながっているのだと思う。

 

 子供なのだと思うが、たぶんこの性分は直らないし、しょうじきなところ、直したほうがいいとも思っていないので、(直したほうが会社ではぜったいうまくやっていけるが)とりあえず自己理解を深めて、せいぜい足掻いていきたい。

 

 

 

消費税の修正申告があったとき、税抜経理と税込経理で法人税への影響時期が異なるのはなぜか

 たとえば、消費税の計算において、課否判定を誤っており、修正申告を行う場合を考えてみたい。(仕訳は税抜経理の場合)

 

(間違った仕訳)

左側勘定:費用:100 仮払消費税:10

右側勘定:Cash:110

 

(正しい仕訳)

左側勘定:費用:110

右側勘定:Cash:110

 

 つまり、ある費用を消費税の課税対象であると判断し、仕入税額控除を行ったが、実は課税対象ではなく、仕入税額控除が否認される場合だ。

 

 よって、消費税の修正申告によって10の税額が発生する。

 ここまでは税抜経理であっても、税込経理であっても、変わらない。

 

 しかし、消費税額が変動するということは、当然法人税の課税関係にも影響を与えるので、法人税の所得の金額が増減することになるのだが、この法人税へ影響させる時期が、税抜経理と税込経理とで異なるとされているのである。

 

 つぎに引用する国税庁の法令解釈通達「消費税法等の施行に伴う法人税の取扱いについて」を、この事例にひきつけて説明すれば、法人税の所得の金額への影響は、税抜経理の場合にはこの取引があった事業年度で、税込経理の場合には修正申告書を提出した日の属する事業年度で、それぞれ受け入れるということになる。

 

(仮払消費税等及び仮受消費税等の清算

6 法人が消費税等の経理処理について税抜経理方式を適用している場合において、消費税法第37条第1項*1の規定の適用を受けたこと等により、同法第19条第1項*2に規定する課税期間の終了の時における仮受消費税等の金額(特定課税仕入れの消費税等の経理金額を含む。)から仮払消費税等の金額(特定課税仕入れの消費税等の経理金額を含み、控除対象外消費税額等に相当する金額を除く。)を控除した金額と当該課税期間に係る納付すべき消費税等の額又は還付を受ける消費税等の額とに差額が生じたときは、当該差額については、当該課税期間を含む事業年度において益金の額又は損金の額に算入するものとする。(平9年課法2-1、平27年課法2-8により改正)

 

(注) 特定課税仕入れの消費税等の経理金額とは、5の2*3のただし書により、特定課税仕入れの取引に係る消費税等の額に相当する額として経理した金額をいう。

 

(消費税等の損金算入の時期)

7 法人税の課税所得金額の計算に当たり、税込経理方式を適用している法人が納付すべき消費税等は、納税申告書に記載された税額については当該納税申告書が提出された日の属する事業年度の損金の額に算入し、更正又は決定に係る税額については当該更正又は決定があった日の属する事業年度の損金の額に算入する。ただし、当該法人が申告期限未到来の当該納税申告書に記載すべき消費税等の額を損金経理により未払金に計上したときの当該金額については、当該損金経理をした事業年度の損金の額に算入する。(平9年課法2-1により改正)

 

(消費税等の益金算入の時期)

8 法人税の課税所得金額の計算に当たり、税込経理方式を適用している法人が還付を受ける消費税等は、納税申告書に記載された税額については当該納税申告書が提出された日の属する事業年度の益金の額に算入し、更正に係る税額については当該更正があった日の属する事業年度の益金の額に算入する。ただし、当該法人が当該還付を受ける消費税等の額を収益の額として未収入金に計上したときの当該金額については、当該収益に計上した事業年度の益金の額に算入する。(平9年課法2-1により改正)

 

 この違いはどう説明されるのだろうか。

 

 法人税においては、益金の額の算入時期については権利確定主義に、損金の額の算入時期については、消費税が2号原価とは考えにくいので、3号経費として債務確定基準に従う。

 今回の事例を考えてみると、税込経理の場合、修正申告書を提出した日が、10の追加税額の債務が確定した日であると考えれば、この日が属する事業年度において損金の額に算入するということは理解できる。

 しかし、それをいうなら、税抜経理の場合であっても、損金または益金の債務または権利が確定したのも、修正申告書を提出した日であるというべきなのではないかという疑問が生じる。

 この点について、つぎのように説明したい。

 

 税抜経理の場合、今回の事例だと、つぎのような修正仕訳を行うことになる。

 

(修正仕訳)

左側勘定:費用:110 

右側勘定:費用:100 仮払(未払)消費税:10

 

 この修正仕訳の結果、費用が10増加しており、これが損金の額に算入される。税込経理の場合と損金の額に算入される金額は10で同じであるが、この10は、税込経理の場合には消費税額であったのに対し、税抜経理の場合は、費用なのである。

 

 この費用が債務確定したのはいつか?

 

 もちろん、この取引があった事業年度である。

 

 以上で、税抜経理の場合と税込経理の場合とで法人税への影響時期が異なることを説明できた(と思う)。

*1:中小事業者の仕入れに係る消費税額の控除の特例

*2:課税期間

*3:特定課税仕入れに係る消費税等の額

悪いことをした人を責めることは正当化できるか?

 悪いことをした人は、責任を問われる。ほとんどの人が当然のこととして受け入れているように思う。

 人を責める方法は、いろいろある。法による罰を与えたり、社会から締め出したり、私刑を行ったり。これらを、悪いことをしていない人にたいして行ったとしたら、これらを行った人が悪人だと言われるだろう。

 しかし、悪いことをした人にたいしてなら、正当化できるらしい。いったい、どういう理由で正当化できるのだろうか。

 

 悪いことをしたからだ、それ以外に理由がいるのか? という指摘がありそうだ。たしかに、悪いことをしたら報いを受けるべきだ、という考え方は、筋が通っている気がするし、感情的にも受け入れやすい。

 しかし、悪いことをしたこと、それ自体が責めを負わされる理由であるならば、赤ちゃんや重度の精神障害を有する人が人を死なせてしまった場合でも、責めを負わせなければならないことになる。おそらく、人を殺すことは「悪いこと」だからだ。このような結論は受け入れがたい気がする。ということは、ある人に責めを負わせる理由は、悪いことをしたから、という理由ではない。

 

 このように指摘すると、ならば、ある人に責めを負わせるのは、悪いことだと分かっていながら悪いことをしたからだ、というのがつぎに出てくる一般的な回答になるだろう。

 しかしこの考え方も、正当防衛を正当化できないという問題を抱えている。なぜなら、敵に襲われて、やむを得ず敵を殺した場合、敵とはいえ人を殺すことは悪いことだと分かっていながら人を殺すという悪いことをしているので、この考え方からすると、この防衛をした人は、責めを負わされることになり、おかしな結論になる気がする。

 

 このように指摘すると、少々いらいらされながら、それなら、ある人に責めを負わせるのは、悪いことだと分かっていながら、その悪いことをしないことができたのに、その悪いことをしたからだ、という回答をされるだろう。

 これは、わりと正しそうな気がする。

 

 しかし、わたしはここにちょっとした疑問というか、本当かな?という思いがある。

 

 たとえば、殺人を犯した人がいたとする。この人を責めるのは、「殺人は悪いことだと分かっていながら、殺人をしないこともできたのに、殺人をしたから」だ。

 ここで、少し想像してみてほしい。

 

 かりに、あなたがこの犯人とまったく同じ生い立ち、性格、考え方をしており、まったく同じ状況に置かれていたとしたら、あなたは、殺人をしないことができただろうか。

 

 答えはもう出ている。犯人とまったく同じなのだから、あなたは殺人をするのだ。

 

 その想像上の人物はもはや犯人そのものであって、自分ではないのだから、自分が殺人をするということにはならない、自分なら、犯人と同じ状況にあっても、殺人はしない、というツッコミがあるだろう。それはたしかにそうだ。しかしそれなら、なぜあなたは犯人にたいして、「殺人をしないこともできた」と言えるのだろうか。たしかにあなたは犯人と同じ状況にあっても殺人をしないことができると思っているのかもしれないが、なぜあなたに、他人である犯人ができること、できないことが分かるのだろうか。

 

 あなたが犯人とまったく同じ状況において、異なる行動をとることができるというのなら、犯人を責めることができるだろう。しかし、まったく同じ状況などありえない。なぜなら、当たり前だが、考え方、価値観、性格は人によって違うからだ。

 

 つまり、わたしたちは、犯人を責める理由を、犯人が殺人をするような考え方、価値観、性格をしていて、殺人をするような状況に遭遇したことに求めていることになる。この点は重要で、つまり、殺人を犯すような状況を招いたことを責めているのであって、殺人それ自体が犯人を責める理由ではないということだ。なぜなら、繰り返しになるが、犯人とまったく同じ状況(内面とか心とかそういうのも含む)にあれば、当然誰しも犯人と同じ行動をとるわけで、その状況において殺人をしないことはできなかったのだから、責めることはできないからだ。

 

 犯人を責める理由をあらためて整理してみる。

 

 ある人に責めを負わせるのは、その人が悪いことだと知っていながら悪いことをしてしまうような考え方、価値観、性格をしており、そのうえで、悪いことをしてしまうような状況に身を置いたからだ。

 

 ここまでくると、その人がそういう考え方や価値観や性格をしていることや、そういう状況に遭遇したことに、どれほど本人に原因を求められるのだろう。

 

 あなたが、いま、あなたのような人である原因はなんだろうか。それはすべてあなた自身のみに原因があるのだろうか。そうではないだろう。

 日本に生まれ、その家に生まれ、その家族をもち、その友人を持ち、その学校に通い、その会社に就職したことにも、いや、むしろそれらのほうにこそ、大きな原因があるのではないだろうか。あなたは日々、仙人のように自分の信じる正義を自分だけで追求してきたのだろうか。すくなくともわたしはぜんぜんそうではない。周りの環境に流され、価値観に染められ、偏見と思い込みに常識という名前をつけて生きてきた気がする。

 地球の反対側に生まれていたとしても、あなたはいまのあなたとまったく同じあなたに育っていたと思うだろうか。思わないだろう。

 

 そう考えると、悪いことをした人を責めることは、やむをえないのかもしれないが、そんなに当たり前に正当化できるものとは言い切れない気がしてくる。

 引き起こした結果にたいしては責任をとらなければならないのかもしれないが、その人が悪い人であるとか、悪いことをしたのだから報いを受けて当然だとか、悪いことをしたのだから何をされても文句は言えないとか、そんなことはそうやすやすと言えることではない気がする。社会は、被害者を保護するのは当然であるが、それと同じくらい、加害者も保護する必要があるのではないか。

 

 なお、悪いことをした人を罰さないと、気持ちが収まらない、みんな納得しない、という意見は感情的にはまったくそのとおりであるが、それは言ってみればみんながいい気分になるためなら誰かをいじめてもいいと言っているのとそう変わらないわけで、ちょっと野蛮すぎるような気もする(というような話をたしか戸田山和久『哲学入門』で読んだ記憶がある)。

 

売上除外や架空経費を貸付金処理した際、利息を認定しなければならないのはなぜか

 法人にたいする税務調査で売上除外や架空経費が認定された場合に、その流出した金銭を法人の代表者に対する貸付金と認定する場合を考える。

 

 この場合、法人は代表者にたいして金銭を貸し付けていることになるため、利息を認定するという発想がある。これは、営利企業の目的は利潤の追求であり、無利息で貸付けを行うということは通常考えられないからであると説明されることが多いと思う。

 

 しかし、この説明にたいしては、つぎのような反論が想定される。

 

「当社には代表者からの借り入れがあるが、これは無利息である。無利息で借り入れをさせてもらっている相手に、今度は反対に貸付けをする場合に無利息とするのは自然なことである。お互いに無利息で貸し借りがあるだけだ。お互いがそれで合意しているのだから、今回の売上除外(架空経費)についても、利息を認定するのはおかしい。かりに代表者からの無利息借り入れがなかったとしても、当事者間で話して無利息とすることの何が問題なのか」

 

 利息を認定すれば、その分法人としては所得が大きくなり、課される税額も大きくなるわけであるから、上記のような反論をする動機はあるといえる。

 上記の反論は正しいだろうか。それとも、誤りがあるだろうか。

 

 「営利企業の目的は利潤の追求であり、無利息で貸付けを行うということは通常考えられないから」という説明は、十分に根拠を説明しているとはいえない。なぜなら、課税の根拠は税法に求められるべきであり、税法には、「無利息で貸付けを行ってはならない」とは書かれていないからである。ただし、利息を認定しなければならないことの根拠が税法にあるならば、この説明はその根拠法令が定められている理由というか、背景ではあるだろう。ということで問題は、税法に根拠が書かれているのか、ということである。

 

 わたしは、つぎのように説明する。

 

 法人税法22条2項をみてみよう。

 

内国法人の各事業年度の所得の金額の計算上当該事業年度の益金の額に算入すべき金額は、別段の定めがあるものを除き、資産の販売、有償又は無償による資産の譲渡又は役務の提供、無償による資産の譲受けその他の取引で資本等取引以外のものに係る当該事業年度の収益の額とする。

 

 ここから、無償による役務の提供から益金が発生することが分かる。

 そして、無利息による貸付けが無償による役務の提供にあたるということは、大阪高判昭和53年3月30日判時925号51頁(清水惣事件)がつぎのように判示している。

 

営利法人が金銭(元本)を無利息の約定で他に貸付けた場合には、借主からこれと対価的意義を有するものと認められる経済的利益の供与を受けているか、あるいは、他に当該営利法人がこれを受けることなく右果実相当額の利益を手離すことを首肯するに足りる何らかの合理的な経済目的その他の事情が存する場合でないかぎり、当該貸付がなされる場合にその当事者間で通常ありうべき利率による金銭相当額の経済的利益が借主に移転したものとして顕在化したといいうるのであり、右利率による金銭相当額の経済的利益が無償で借主に提供されたものとしてこれが当該法人の収益として認識されることになるのである。

 

 ここまで提示した法令と裁判例は、無利息で貸付けをした場合、無償による役務の提供による収益が生じるということを示しているのであって、ここから無利息貸付けをしてはならないということはいえない。もちろん、利息をかけるかかけないかは基本的に当事者間で決定されるべき事項であって、税法はその事実関係に基づいて適用されるだけであるから、無利息による貸付けは当然にありうる。しかし、無利息による貸付けからは収益が生じ、その結果、寄附金が発生すると考えられる。

(仕訳は以下のとおり)

Cash / 収益

寄附金 / Cash

 

 寄附金は損金算入に制限が設けられているため、その結果として所得が発生する場合がある。

 

 以上のような説明である。

 

 したがって、タイトルにたいする答えとしては、「利息を認定しなければならないというわけではないが、無利息とするなら、寄附金の限度額計算を行うことになる」と考えたい。ちなみに、代表者から法人への無利息貸付けについては、所得税法には無償による役務の提供から収益が発生するとの規定はないので、課税関係は生じない。

 

 なお、引用した裁判例が、「合理的な経済目的その他の事情が存する場合」は無利息貸付けから収益が生じないとしていることから、上記の想定反論の内容が「合理的な経済目的その他の事情」にあたるのではないかという疑問が生じるが、これについてはつぎのように考えたい。

 清水惣事件において収益の発生が認定された無償貸付けは、親子関係にある法人間での取引であり、親会社が子会社の事業を援助する目的で行われたものであった。この理由ですら「合理的な経済目的その他の事情」にあてはまらないとされていることを考えれば、上記の想定反論が「合理的な経済目的その他の事情」にあたるとは考えにくいように思われる。