飲み会翌朝のあいさつってなんであんな嫌なん?

  わたしが勤める会社では、飲み会のあった日の翌朝、飲み会に参加した人にあいさつに回るという文化がある。

 

 「昨日はお疲れ様でしたー」みたいなかんじで、目下の者が目上の者にたいしてあいさつに行くというのが暗黙の了解となっている。

 

 わたしは、これが苦手だ。

 

 苦手というか、はっきり言って嫌だ。あいさつに行きたくない。会社の飲み会自体は、面倒だな、とか、ほかにもっと有効な時間を使い方をしたいな、とは思うが、別に嫌で嫌で仕方がないというほどではない。それなのにわたしが会社の飲み会に行きたくないのは、翌朝のあいさつが嫌だからだ。それほどまでに嫌だ。

 

 しかし、どうしてこんなに嫌なのか、はっきりとした理由が分からないのだ。

 

 たとえば、あいさつ自体を重要視していなくて、しなくてもいいものだと考えているのなら、それを期待する文化になじめないのは理解できる。しかし、わたしはあいさつを重要視しているし、単純に好きだ。自分からあいさつをするのは気持ちがいいし、相手にも喜んでもらえることが多いので、こちらまで嬉しくなる。

 今までの人生でも、だいたい、あいさつがさわやか、笑顔が素敵、物腰柔らか、といった評されてきた(そう言ってくれた人は確かに存在した)。

 

 たとえば、特定の人にだけあいさつに行きたくない、というのなら、それも分かる。しかし、わたしは、とても好意的に感じている会社の人にたいしても、あまり気が進まない。

 

 そして何より不思議なのが、飲み会の翌朝のあいさつ的なものを、わたしは、プライベートの場合はむしろ積極的に、好んでやりたくなるということだ。

 つまり、会社においてのみやりたくなくなるのである。

 

 これがどうしてなのか、かねてから不思議に感じていたのだが、ちょっとした仮説に至ったので、書いておく。

 

 さっき、わたしはあいさつが好きで、相手も喜んでくれるのでこちらも嬉しくなると書いた。

 これに嘘はないのだが、じつは、わたしは、逆に相手からあいさつされることは、あまり嬉しくないのだ。めちゃくちゃ誤解されそうなので弁解するが、別に嬉しくないわけではない。でも、ぶっちゃけ面倒くささが勝っている場合が多い。好意を抱いている相手(特段恋愛対象という意味ではなく)なら嬉しいが、それでも自分からあいさつして相手が喜んでくれることにはまったく及ばない。ただの同僚なら、面倒くさいが完全に勝つ。

 やはり思うのは、人に尽くしてもらう喜びよりも、人に尽くす喜びのほうが、比較にならないほど質の高い幸福感を得られるということだ。

 たとえば結婚の幸せは、配偶者から何かを与えてもらえることにあるのではなく、むしろ何かを配偶者に与えてあげられることにあるのだと思う。そして何より、自分が与えたものを受け取ってくれ、それを誰より喜んでくれることにこそあるのだと思う。

 

 そう考えると、わたしが会社ではあいさつしたくなく、プライベートではしたくなる理由が少し説明できる。

 

 つまり、会社では、そういう文化なので、目上の者は、目下の者があいさつに来ることを当然だと思っているし、社員たちもそれを当然だと思っている。むしろ、ちゃんとあいさつするかどうか試しているふしすらある。

 おそらく、わたしはそれが嫌なのだ。義務化、ルール化されると、やりたくなくなる。

 さいきん、とある本を読み返していて、(だいたい)こんなことが書かれていた。(ヤニス・バルファキス, 2019, 『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』ダイヤモンド社, pp.45-48, 筆者要約)

 

とある漁船の錨が海底の岩に挟まってしまい、鎖が切れてしまったので、縄を錨に結びに海の潜りたいが、船長は持病が悪化して潜れそうにない。そこで、近くにいた著者が、船長の代わりに潜ってもらうよう頼まれた。

 著者は快く引き受け、この船長の手助けをしたことに、喜びを感じた。しかし、かりに、この船長が、お金を払うから代わりに潜ってもらえないか、と頼んできていたら、喜びは得られなかっただろう、とも感じた。

 

 こういうことをしたら、あの人はきっと喜んでくれるだろう、と想像するのは本当に楽しい。じっさいに行動した結果、相手が喜んでくれたら最高に嬉しい。かりに相手があまり喜んでくれなかったとしても、自分は幸せな気持ちになる。それは、きっと自分が心からそうしたいと思って行動するからだ。それが幸福感につながる。結果の良し悪しではなく、自分の意思で、選択して行うことに意味がある。

 

 会社でルール化されたことは、当然、仕事だ。給料をもらうためにすることだ。あいさつは人間関係を円滑にするし、したほうが良いに決まっているので、それは、業務を行う上では有効な施策だったかもしれない。しかし、ヤニス・バルファキスが感じたように、喜びは失われる。

 

 わたしは、きっとそれが嫌なのだろう。ようするに、自分がやりたくないこと、喜びを感じられないことができない性分なのだ。それはみんなある程度そうだろうが、わたしはその許容量が相当少ないのだと思う。

 わたしは過去を悔やむ、というか、自分がやってしまったことで今となっては間違いだったと思うことなどを、時々異様に思い出して、自分を許せなくて、落ち込むことがある。そういうところにも、つながっているのだと思う。

 

 子供なのだと思うが、たぶんこの性分は直らないし、しょうじきなところ、直したほうがいいとも思っていないので、(直したほうが会社ではぜったいうまくやっていけるが)とりあえず自己理解を深めて、せいぜい足掻いていきたい。