「殴られたくなければ金払え」「この商品が欲しければ金払え」これってなにがちがうん?

このようなツイートが流れてきた。

 

リンゴ1つ狩るのが大変な世界で、狩りに行く度10個採ってくるスターがいました。

半分、村に納めます。村の為に。

ある時、村長がたまにはと、村に集まったリンゴで小さなリンゴパイを配りました。だけどスターは貰えません。
お前は家にたくさんあるだろ。スターはアホらしくて村を去り、その村は…

 

 

ある程度以上の所得のある人々にとっては、このような議論に共感を覚えるかもしれない。曰く、所得税累進課税は(有能な)高所得者の勤労意欲を阻害するから望ましくない。もっと包み隠さずに言えば、こんなところだろう。

こんなに優秀な自分がこんなに苦労してたくさん稼いでいるのに、無能な人々のために納税させられるのは不公平だ。自分が裕福で、彼が裕福でないのは、才能と努力の結果であって、それに値するのだ、と。

 

もちろん、高所得者は、低所得者よりも税金による恩恵を多く受けているということもいえるかもしれないし、そうだとすれば税金を多く負担することも当然だともいえるかもしれない。

ただ、今回は、また別の視点からこのツイート(的な)主張を考えてみたい。

 

たとえば、あなたが、「殴られたくなければ、100万円を支払え。」と言われたとしよう。

あなたは、(それだけの勇気があれば)「そんなことを言われるいわれはない。そんな要求は受け入れられない。」と反論するかもしれないし、家族を人質に取られれば、泣く泣く100万円を支払うかもしれない。(その上で警察に相談するだろう)

 

すくなくとも、このような要求が違法であり、それによって100万円を得ることは正当化されないということには、多くの人が同意してくれるだろう。

 

いっぽうで、つぎのような要求はどうだろうか。

 

「この商品を手に入れたければ、100万円を支払え。」

 

この資本主義社会において、この要求は基本的に合法であるし、上記のツイート(的な)主張に共感する人は、双方の合意の上で所得の移動がなされるのであるから、このような要求によって100万円を得ることは正当化されると考えるのかもしれない。

 

しかし、このふたつの取引に、本質的な差はあるといえるだろうか。

 

まず、前者は、「何かをしないこと」とお金を取引しているのに対し、後者は「何かをすること」とお金を取引しているから、同視することはできないという主張にたいしては、後者を、「この商品の供給を止められたくなければ、100万円を支払え。」と言い換えればほぼ同じなので、あまり筋のよい主張とはいえない。

 

つぎに、前者は合意がないが、後者は合意があるという主張については、事実として前者にも合意はある。もちろんそれが正当な合意であるというつもりはないが、それならば、前者は正当な合意とはいえず、後者は正当な合意といえるだろうか。

 

前者は違法であり、後者は合法であるから、前者は正当化されず、後者は正当化される、という主張は誤りだ。

なぜなら、違法だが正当化される場合や、合法だが正当化されない場合があることはあきらかであるからである。(前者の例として杉原千畝の「命のビザ」、後者の例として、時代の変化に法規制が追い付いていない分野における行為など)

 

そもそも、人間の立法能力が完璧であると仮定すれば、正当化されるから合法なのであり、正当化されないから違法なのであるから、正当/不当は、合法/違法の手前にある問題なのである。

 

したがって、合法/違法をいったん横に置いておいて、正当/不当という軸で考えてみよう。

 

どんな社会であっても、市場に任せていれば、「力」を持つ者が富を独占することになる。なんの規制もない、原始的な社会にあっては、その「力」は、「武力」になるだろう。つまり、「殴られたくなければ100万円支払え。」の世界である。

 

しかし、この社会を正当化する者は多くないはずだ。

私たちは、「人権」などといった概念を生み出し、育て、道徳的に進歩してきたのだから。

「力」ある者が、「力」なき者から、「力」でもってなにかを奪うことは不当である。

それは、たとえばホロコーストであり、奴隷制であり、ブラック企業であり、ハラスメントだ。

 

それならば、この「力」には、「資本力」も含まれるのではないだろうか。

 

原始的な社会では、この世界の富は、誰の者でもなかったはずだ。

まさか、この世界の法律が富の偏在を許容しているからといって、それに基づく富の偏在が、本質的に正当化されるなどと主張するつもりだろうか。

 

法が、資本主義を許容しているのは、それが富を最大化することにもっとも適しているからに過ぎないというべきであろう。

そして、そのことが、(基本的には)人々の幸福の最大化に資すると考えられているからに過ぎないというべきであろう。

 

「スター」は「スター」でない人に、施しをしてあげている存在なのだろうか。「スター」でない人は、「スター」に物乞いをしなければならない存在なのだろうか。

「スター」でない人は、「スター」と同じような水準の生活を望んではいけないのだろうか。「スター」が許してくれる範囲の幸福しか望むべきではないのだろうか。

 

私は、資本主義による富の偏在は、合法だが正当化できないと思う。

「スター」は、合法的だが不当に奪った富を、正当に分配するべきなのではないだろうか。

 

なお、「スター」はそんな社会から出ていってしまうじゃないか、という主張にたいしては、それはそうかもしれないし、否定しない。

しかし、それは私の考え方のデメリットであるかもしれないということであって、だからといって私の考え方がただちに間違ってるということにはならないので、捕捉しておく。