悪いことをした人を責めることは正当化できるか?

 悪いことをした人は、責任を問われる。ほとんどの人が当然のこととして受け入れているように思う。

 人を責める方法は、いろいろある。法による罰を与えたり、社会から締め出したり、私刑を行ったり。これらを、悪いことをしていない人にたいして行ったとしたら、これらを行った人が悪人だと言われるだろう。

 しかし、悪いことをした人にたいしてなら、正当化できるらしい。いったい、どういう理由で正当化できるのだろうか。

 

 悪いことをしたからだ、それ以外に理由がいるのか? という指摘がありそうだ。たしかに、悪いことをしたら報いを受けるべきだ、という考え方は、筋が通っている気がするし、感情的にも受け入れやすい。

 しかし、悪いことをしたこと、それ自体が責めを負わされる理由であるならば、赤ちゃんや重度の精神障害を有する人が人を死なせてしまった場合でも、責めを負わせなければならないことになる。おそらく、人を殺すことは「悪いこと」だからだ。このような結論は受け入れがたい気がする。ということは、ある人に責めを負わせる理由は、悪いことをしたから、という理由ではない。

 

 このように指摘すると、ならば、ある人に責めを負わせるのは、悪いことだと分かっていながら悪いことをしたからだ、というのがつぎに出てくる一般的な回答になるだろう。

 しかしこの考え方も、正当防衛を正当化できないという問題を抱えている。なぜなら、敵に襲われて、やむを得ず敵を殺した場合、敵とはいえ人を殺すことは悪いことだと分かっていながら人を殺すという悪いことをしているので、この考え方からすると、この防衛をした人は、責めを負わされることになり、おかしな結論になる気がする。

 

 このように指摘すると、少々いらいらされながら、それなら、ある人に責めを負わせるのは、悪いことだと分かっていながら、その悪いことをしないことができたのに、その悪いことをしたからだ、という回答をされるだろう。

 これは、わりと正しそうな気がする。

 

 しかし、わたしはここにちょっとした疑問というか、本当かな?という思いがある。

 

 たとえば、殺人を犯した人がいたとする。この人を責めるのは、「殺人は悪いことだと分かっていながら、殺人をしないこともできたのに、殺人をしたから」だ。

 ここで、少し想像してみてほしい。

 

 かりに、あなたがこの犯人とまったく同じ生い立ち、性格、考え方をしており、まったく同じ状況に置かれていたとしたら、あなたは、殺人をしないことができただろうか。

 

 答えはもう出ている。犯人とまったく同じなのだから、あなたは殺人をするのだ。

 

 その想像上の人物はもはや犯人そのものであって、自分ではないのだから、自分が殺人をするということにはならない、自分なら、犯人と同じ状況にあっても、殺人はしない、というツッコミがあるだろう。それはたしかにそうだ。しかしそれなら、なぜあなたは犯人にたいして、「殺人をしないこともできた」と言えるのだろうか。たしかにあなたは犯人と同じ状況にあっても殺人をしないことができると思っているのかもしれないが、なぜあなたに、他人である犯人ができること、できないことが分かるのだろうか。

 

 あなたが犯人とまったく同じ状況において、異なる行動をとることができるというのなら、犯人を責めることができるだろう。しかし、まったく同じ状況などありえない。なぜなら、当たり前だが、考え方、価値観、性格は人によって違うからだ。

 

 つまり、わたしたちは、犯人を責める理由を、犯人が殺人をするような考え方、価値観、性格をしていて、殺人をするような状況に遭遇したことに求めていることになる。この点は重要で、つまり、殺人を犯すような状況を招いたことを責めているのであって、殺人それ自体が犯人を責める理由ではないということだ。なぜなら、繰り返しになるが、犯人とまったく同じ状況(内面とか心とかそういうのも含む)にあれば、当然誰しも犯人と同じ行動をとるわけで、その状況において殺人をしないことはできなかったのだから、責めることはできないからだ。

 

 犯人を責める理由をあらためて整理してみる。

 

 ある人に責めを負わせるのは、その人が悪いことだと知っていながら悪いことをしてしまうような考え方、価値観、性格をしており、そのうえで、悪いことをしてしまうような状況に身を置いたからだ。

 

 ここまでくると、その人がそういう考え方や価値観や性格をしていることや、そういう状況に遭遇したことに、どれほど本人に原因を求められるのだろう。

 

 あなたが、いま、あなたのような人である原因はなんだろうか。それはすべてあなた自身のみに原因があるのだろうか。そうではないだろう。

 日本に生まれ、その家に生まれ、その家族をもち、その友人を持ち、その学校に通い、その会社に就職したことにも、いや、むしろそれらのほうにこそ、大きな原因があるのではないだろうか。あなたは日々、仙人のように自分の信じる正義を自分だけで追求してきたのだろうか。すくなくともわたしはぜんぜんそうではない。周りの環境に流され、価値観に染められ、偏見と思い込みに常識という名前をつけて生きてきた気がする。

 地球の反対側に生まれていたとしても、あなたはいまのあなたとまったく同じあなたに育っていたと思うだろうか。思わないだろう。

 

 そう考えると、悪いことをした人を責めることは、やむをえないのかもしれないが、そんなに当たり前に正当化できるものとは言い切れない気がしてくる。

 引き起こした結果にたいしては責任をとらなければならないのかもしれないが、その人が悪い人であるとか、悪いことをしたのだから報いを受けて当然だとか、悪いことをしたのだから何をされても文句は言えないとか、そんなことはそうやすやすと言えることではない気がする。社会は、被害者を保護するのは当然であるが、それと同じくらい、加害者も保護する必要があるのではないか。

 

 なお、悪いことをした人を罰さないと、気持ちが収まらない、みんな納得しない、という意見は感情的にはまったくそのとおりであるが、それは言ってみればみんながいい気分になるためなら誰かをいじめてもいいと言っているのとそう変わらないわけで、ちょっと野蛮すぎるような気もする(というような話をたしか戸田山和久『哲学入門』で読んだ記憶がある)。